難しいと「わかんねーよ」といわれるのでしょうが、わかりやすすぎる場合にも立ち止まって考えた方がよいことも。
つくる側にいる人からの指摘。
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『ドキュメンタリーは嘘をつく』第6章「わかりやすいマスメディア」
(途中から)
テレビに限ったことではなく、メディアが不祥事をおこすたびに、「商業主義が諸悪の根源であり、これを改めるべきだ」と識者は批判する。無邪気としかいいようがない。マスメディアの営みは商業行為だ。テレビ局や出版社、新聞社はまぎれもない営利企業だし、その意味で商業主義は当たり前だ。
視聴率や発行部数は、メーカーで言えば売り上げに相当する。その数字を追及することは企業として必要なことなのだ。
NHKは確かに、民間のスポンサーを持たないという観点では他のテレビ局とは若干違う。でも、「良識」や「民意」という絶対的な指標がある。
公共放送を謳っている以上、この指標の束縛からはなかなか自由になれない。後述するがこの良識や民意が何よりも曲者だと僕は思っている。
商業主義から脱することは不可能ならば、視聴者や読者というマーケットの要求に応じることも必然だ。要するにメディアが、オウムや北朝鮮や白装束集団へのヒステリックなバッシングに走るのも、ワールドカップ期間中はサッカー一色に染まるのも、タマちゃんの一挙手一投足やハルウララの連敗をトップニュースで伝えるのも、すべてクライアント(顧客)である日本国民のマジョリティのニーズに応えているだけなのだ。
タリバンが国際社会から批判される一つの要因だった公開処刑は、近代以前ならどこの文化もあった。日本だって例外ではない。市中引き回しで罪人に石を投げ、公開処刑や火あぶりに一般市民がうきうきと娯楽よろしく集まった時代からまだ一世紀と少ししかたっていない。
統治する側からすれば、処刑を公開する狙いは、見世目効果と行政への不満や鬱憤のガス抜きだ。でも現代では、お上主導ではなくメディアが率先して、この機能を担っている。要するにテレビ画面という祭壇に捧げる新鮮ないけにえを、世論は常に求め続けている。メディア(媒介)が変わっただけで、やっていることは変わらない。
太平洋戦争時、軍部の意向に沿った翼賛報道に転向したと新聞がよく批判されるが、郡部ではなく、その背後にある国民のニーズにこたえた帰結なのだと僕は思う。あの時代に反戦や厭戦をもし訴えれば、国家に弾圧される前にその新聞は、市場原理で淘汰されていただろう。だからこそ朝日を筆頭に新聞は、こぞって日の丸を振り始め位、メディアが自発的に撤退した領域を、軍部(国家権力)はあっさりと手中にすることができた。
(中略)
オウム以降、不安がまん延することによって思考が停止した社会は、正義と邪悪、善と悪、真実と虚偽などの二元論に無自覚に邁進しながら増悪を萌芽させた。民意を市場原理とするメディアは、ここぞとばかりにこの流れに追随する。こうしてテレビ画面をはさみ、二元論が相乗効果として加速される。もちろん新聞や雑誌も、この競争原理からは無縁でいられない。
マスメディアはここぞとばかりに新たな生贄探しに狂奔し、それによって刺激された世論はさらにサディスティックとなって次の標的を求め、メディアはこれに応えるために血眼になる。魔女狩りの時代の復活だ。この局面に陥れば、メディアだけでなう政治や司法でさえも、主体的なコントロールを取り戻すことは難しい。
(以下続く)
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このあと、オウム事件渦中において、メディアが「わかりやすさ」に縛られる軸から、事実とは違う報道をすることに気付いた住民にあきれらる事例が紹介され、カメラをむけていた森さんは「はずかしくて消えてしまいたくなる」とつづっています。「わかりやすさ」が奪い続けるものについての省察。
それでもドキュメンタリーは嘘をつく (角川文庫)クリエーター情報なし角川グループパブリッシング
ドキュメンタリーは嘘をつくクリエーター情報なし草思社
つくる側にいる人からの指摘。
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『ドキュメンタリーは嘘をつく』第6章「わかりやすいマスメディア」
(途中から)
テレビに限ったことではなく、メディアが不祥事をおこすたびに、「商業主義が諸悪の根源であり、これを改めるべきだ」と識者は批判する。無邪気としかいいようがない。マスメディアの営みは商業行為だ。テレビ局や出版社、新聞社はまぎれもない営利企業だし、その意味で商業主義は当たり前だ。
視聴率や発行部数は、メーカーで言えば売り上げに相当する。その数字を追及することは企業として必要なことなのだ。
NHKは確かに、民間のスポンサーを持たないという観点では他のテレビ局とは若干違う。でも、「良識」や「民意」という絶対的な指標がある。
公共放送を謳っている以上、この指標の束縛からはなかなか自由になれない。後述するがこの良識や民意が何よりも曲者だと僕は思っている。
商業主義から脱することは不可能ならば、視聴者や読者というマーケットの要求に応じることも必然だ。要するにメディアが、オウムや北朝鮮や白装束集団へのヒステリックなバッシングに走るのも、ワールドカップ期間中はサッカー一色に染まるのも、タマちゃんの一挙手一投足やハルウララの連敗をトップニュースで伝えるのも、すべてクライアント(顧客)である日本国民のマジョリティのニーズに応えているだけなのだ。
タリバンが国際社会から批判される一つの要因だった公開処刑は、近代以前ならどこの文化もあった。日本だって例外ではない。市中引き回しで罪人に石を投げ、公開処刑や火あぶりに一般市民がうきうきと娯楽よろしく集まった時代からまだ一世紀と少ししかたっていない。
統治する側からすれば、処刑を公開する狙いは、見世目効果と行政への不満や鬱憤のガス抜きだ。でも現代では、お上主導ではなくメディアが率先して、この機能を担っている。要するにテレビ画面という祭壇に捧げる新鮮ないけにえを、世論は常に求め続けている。メディア(媒介)が変わっただけで、やっていることは変わらない。
太平洋戦争時、軍部の意向に沿った翼賛報道に転向したと新聞がよく批判されるが、郡部ではなく、その背後にある国民のニーズにこたえた帰結なのだと僕は思う。あの時代に反戦や厭戦をもし訴えれば、国家に弾圧される前にその新聞は、市場原理で淘汰されていただろう。だからこそ朝日を筆頭に新聞は、こぞって日の丸を振り始め位、メディアが自発的に撤退した領域を、軍部(国家権力)はあっさりと手中にすることができた。
(中略)
オウム以降、不安がまん延することによって思考が停止した社会は、正義と邪悪、善と悪、真実と虚偽などの二元論に無自覚に邁進しながら増悪を萌芽させた。民意を市場原理とするメディアは、ここぞとばかりにこの流れに追随する。こうしてテレビ画面をはさみ、二元論が相乗効果として加速される。もちろん新聞や雑誌も、この競争原理からは無縁でいられない。
マスメディアはここぞとばかりに新たな生贄探しに狂奔し、それによって刺激された世論はさらにサディスティックとなって次の標的を求め、メディアはこれに応えるために血眼になる。魔女狩りの時代の復活だ。この局面に陥れば、メディアだけでなう政治や司法でさえも、主体的なコントロールを取り戻すことは難しい。
(以下続く)
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このあと、オウム事件渦中において、メディアが「わかりやすさ」に縛られる軸から、事実とは違う報道をすることに気付いた住民にあきれらる事例が紹介され、カメラをむけていた森さんは「はずかしくて消えてしまいたくなる」とつづっています。「わかりやすさ」が奪い続けるものについての省察。
それでもドキュメンタリーは嘘をつく (角川文庫)クリエーター情報なし角川グループパブリッシング
ドキュメンタリーは嘘をつくクリエーター情報なし草思社