4月30日、厚生労働省結核感染症課から各都道府県・保健所設置市・特別区の衛生主管部(局)担当者あてに、梅毒が増えているので、
「地域の梅毒の発生動向を注視するとともに、必要に応じて、感染リスクが高い層に対する検査の受診勧奨や、対象者の実情に応じた感染拡大防止対策の更なる推進に御配意願います。」
という連絡が行われています。平成22年以降増えてますよ、です。
今は平成26年。
「さらなる推進」ということは、この4年間の間に何が行われてきたのか?でありますが・・・(もごもご)。
厚労省のホームページには、思春期向けの男女別パンフレットやオーラルセックスでの感染予防啓発やQ&A、パートナー検査のススメ、注意喚起動画なども掲載されています。
最新のポスターは、数が増えれば的な1980年っぽいものに後退してますが(研修で学ぶ"誤解を招くメッセージ"そのまま)。
上記はジェネラルなものです。
今回は梅毒でアクションが行われたよ(ついに? やっと?)です。
MSMが最多ということはデータ上も把握されていますが、HIVとちがって異性間でも流行っていますし、何もしなければ母子感染というじたいにもつながります。
何かしたほうがいいです、、、ということを2014年4月に国が言ったという意味は大きいですね。
実際には流行レベルや事情が地域によって異なるので国の責任というよりは、evidence based public health、各地域で対策をしましょう、というわけです。
ハイリスク人口・年齢の多い東京や大阪と○○県ではおきているリスクとインパクトも違います。
大流行している地域で何をしているか?を参考にしたいところですが、青木編集長が水曜日に外来を担当している新宿という大流行地でさえどのような対策があるのかいまいちわかりません。
実は保健所のエイズ検査と一緒に梅毒検査も無料で受けられるところも一定数あります。
さらなる推進では東京では何ができるでしょうか。
歴史を調べると、本気の梅毒対策が行われた時期があります。
タイミングは「開国によって」。
外国の人が日本にやってきて、梅毒のはやりっぷりに驚きます。
(しかも、、、オイオイみんなあまり気にしていないんじゃね? という二重のオドロキがあったとのことです)
当時は船で日本に来ますから、港に船が入ってきて、船にたくさん乗っている若い男性が下船して向かう先はどこ?というところから話がはじまります。
船の偉い人たちが、水兵への梅毒感染拡大を恐れて、日本政府に対策を講じてくださいよと依頼します。
1853年(嘉永6年)4月 浦賀へペリー来航 日米和親条約 日露和親条約
1860年(万延元年)ロシア軍艦ポスザニク号が長崎港に入港。
稲佐/平戸に居住することになったことから、艦長は長崎奉行に対して娼婦の梅毒検査を徹底するように依頼。
長崎養生所で西洋医学を教えていたポンペと蘭方医・松本良順によって検査が実施されることになりました。
(当事者や関係者からは激しい抵抗と批判)
「陰門開観」
水夫に売女を提供する前に医師が検査し、無病の女だけを用いる、との記録があるそうです。
1867年(慶応3年)駐日英国公使館付医官ウィリスが残した梅毒についての記録では、子どものときに買われてくる女郎における梅毒の広がり、売春宿に出入りする妻帯者の多さなどの社会描写もあり、開港場に日本政府が適当な病院を設立し、十分資格のある人物が、一週間に一度、すべての売春婦を定期検査すべしと提案もされたそうです。
1868年 英国海軍医のニュートンが横浜で無料で週1回健診を実施。検梅制度がはじまります。受診者全体の数値も残っています。
(ちなみに1869年BMJのコピー)
その後、慶応3年前に80%近かった遊郭女性の梅毒罹患率は明治元年に51%前、明治2年に36%になったと記録があります(どうやって計算したのか、治療は無いが、、などいろいろ気になるところはありますが、対策をすればそれなりに減るんだよ、と考えることもできます)
横浜でうまくいったこともあり、これを長崎、神戸、大阪、東京に梅毒病院を設置しようと計画していたところ、1871年にニュートンは長崎滞在中に脳溢血で亡くなってしまいます。残念。
しかし、同1871年(明治4年)5月、明治政府は「民部省通達」として各県の地方官に売女の取り締まり徹底を出しました。
(漢字とカタカナの文章で読みにくいので詳細は略)
昔の治療は蒸気で蒸したり煎じ薬を局所に塗ったり、苦痛を伴う水銀治療だったり。それを劇的に変えたのがペニシリン。
淋菌と違って、耐性の問題はおきておらず梅毒の治療として今も第一選択薬です。
1929年、英国のSt.Mary病院のラボでフレミングがペニシリンを発見。
普及とともに世界における梅毒は減っていった感染症対策上も輝かしい成功談なのですが、
いまにいたるまでアウトブレイクへの対応に追われています。
「再興」感染症といわれる所以です。
人権への配慮、というような話はごく最近で、初期にはかなり強制的に検査や対策が行われていました。
兵士の健康を守るため、、ということでは比較的最近の話題もあります。
琉球衛研物語 性病Gメン
ooyake 性病Gメンの功罪
2014年。
IASRに国全体と東京でのアウトブレイクと二つのレポートが載り、メディアも取り上げた、ということが今回の全国への注意喚起につながっていると思います。
その動きを作ったのは実は臨床医。
なぜなら、増えている、対策を取らねばと考えるためのエビデンスは、医師の発生届けから始まるからです。
5類の全数報告の感染症。
ホームページからダウロードして記載して保健所にFAXします。
医師や医療機関の善意の協力でなりたっているシステムです。
うやむやにすると健康被害は拡大しますし、低リスク層にも広がるかもしれません。
予防や早期受診のためにできることをやっていきましょう。
4月24日 健康百科(メディカルトリビューン)梅毒が都内で流行―07年の2.5倍、男性が9割占める
「知り合った場所はネット」が最多という調査結果もありますので、2014年の予防や早期受診のための注意喚起の戦略も考えて行かねばですね。
「地域の梅毒の発生動向を注視するとともに、必要に応じて、感染リスクが高い層に対する検査の受診勧奨や、対象者の実情に応じた感染拡大防止対策の更なる推進に御配意願います。」
という連絡が行われています。平成22年以降増えてますよ、です。
今は平成26年。
「さらなる推進」ということは、この4年間の間に何が行われてきたのか?でありますが・・・(もごもご)。
厚労省のホームページには、思春期向けの男女別パンフレットやオーラルセックスでの感染予防啓発やQ&A、パートナー検査のススメ、注意喚起動画なども掲載されています。
最新のポスターは、数が増えれば的な1980年っぽいものに後退してますが(研修で学ぶ"誤解を招くメッセージ"そのまま)。
上記はジェネラルなものです。
今回は梅毒でアクションが行われたよ(ついに? やっと?)です。
MSMが最多ということはデータ上も把握されていますが、HIVとちがって異性間でも流行っていますし、何もしなければ母子感染というじたいにもつながります。
何かしたほうがいいです、、、ということを2014年4月に国が言ったという意味は大きいですね。
実際には流行レベルや事情が地域によって異なるので国の責任というよりは、evidence based public health、各地域で対策をしましょう、というわけです。
ハイリスク人口・年齢の多い東京や大阪と○○県ではおきているリスクとインパクトも違います。
大流行している地域で何をしているか?を参考にしたいところですが、青木編集長が水曜日に外来を担当している新宿という大流行地でさえどのような対策があるのかいまいちわかりません。
実は保健所のエイズ検査と一緒に梅毒検査も無料で受けられるところも一定数あります。
さらなる推進では東京では何ができるでしょうか。
歴史を調べると、本気の梅毒対策が行われた時期があります。
タイミングは「開国によって」。
外国の人が日本にやってきて、梅毒のはやりっぷりに驚きます。
(しかも、、、オイオイみんなあまり気にしていないんじゃね? という二重のオドロキがあったとのことです)
当時は船で日本に来ますから、港に船が入ってきて、船にたくさん乗っている若い男性が下船して向かう先はどこ?というところから話がはじまります。
船の偉い人たちが、水兵への梅毒感染拡大を恐れて、日本政府に対策を講じてくださいよと依頼します。
1853年(嘉永6年)4月 浦賀へペリー来航 日米和親条約 日露和親条約
1860年(万延元年)ロシア軍艦ポスザニク号が長崎港に入港。
稲佐/平戸に居住することになったことから、艦長は長崎奉行に対して娼婦の梅毒検査を徹底するように依頼。
長崎養生所で西洋医学を教えていたポンペと蘭方医・松本良順によって検査が実施されることになりました。
(当事者や関係者からは激しい抵抗と批判)
「陰門開観」
水夫に売女を提供する前に医師が検査し、無病の女だけを用いる、との記録があるそうです。
1867年(慶応3年)駐日英国公使館付医官ウィリスが残した梅毒についての記録では、子どものときに買われてくる女郎における梅毒の広がり、売春宿に出入りする妻帯者の多さなどの社会描写もあり、開港場に日本政府が適当な病院を設立し、十分資格のある人物が、一週間に一度、すべての売春婦を定期検査すべしと提案もされたそうです。
1868年 英国海軍医のニュートンが横浜で無料で週1回健診を実施。検梅制度がはじまります。受診者全体の数値も残っています。
(ちなみに1869年BMJのコピー)
その後、慶応3年前に80%近かった遊郭女性の梅毒罹患率は明治元年に51%前、明治2年に36%になったと記録があります(どうやって計算したのか、治療は無いが、、などいろいろ気になるところはありますが、対策をすればそれなりに減るんだよ、と考えることもできます)
横浜でうまくいったこともあり、これを長崎、神戸、大阪、東京に梅毒病院を設置しようと計画していたところ、1871年にニュートンは長崎滞在中に脳溢血で亡くなってしまいます。残念。
しかし、同1871年(明治4年)5月、明治政府は「民部省通達」として各県の地方官に売女の取り締まり徹底を出しました。
(漢字とカタカナの文章で読みにくいので詳細は略)
昔の治療は蒸気で蒸したり煎じ薬を局所に塗ったり、苦痛を伴う水銀治療だったり。それを劇的に変えたのがペニシリン。
淋菌と違って、耐性の問題はおきておらず梅毒の治療として今も第一選択薬です。
1929年、英国のSt.Mary病院のラボでフレミングがペニシリンを発見。
普及とともに世界における梅毒は減っていった感染症対策上も輝かしい成功談なのですが、
いまにいたるまでアウトブレイクへの対応に追われています。
「再興」感染症といわれる所以です。
人権への配慮、というような話はごく最近で、初期にはかなり強制的に検査や対策が行われていました。
兵士の健康を守るため、、ということでは比較的最近の話題もあります。
琉球衛研物語 性病Gメン
ooyake 性病Gメンの功罪
2014年。
IASRに国全体と東京でのアウトブレイクと二つのレポートが載り、メディアも取り上げた、ということが今回の全国への注意喚起につながっていると思います。
その動きを作ったのは実は臨床医。
なぜなら、増えている、対策を取らねばと考えるためのエビデンスは、医師の発生届けから始まるからです。
5類の全数報告の感染症。
ホームページからダウロードして記載して保健所にFAXします。
医師や医療機関の善意の協力でなりたっているシステムです。
うやむやにすると健康被害は拡大しますし、低リスク層にも広がるかもしれません。
予防や早期受診のためにできることをやっていきましょう。
4月24日 健康百科(メディカルトリビューン)梅毒が都内で流行―07年の2.5倍、男性が9割占める
「知り合った場所はネット」が最多という調査結果もありますので、2014年の予防や早期受診のための注意喚起の戦略も考えて行かねばですね。