日本の医といえば、昔は加持祈祷、中国や朝鮮半島からはいってきた薬、それを発展させた形の漢方が主流でした。
西洋の影響は、ヨーロッパ諸国が航海技術を発展させ、産業革命、宗教対立/戦争その他で「外へいかねば」というモードができてから。
オランダ→ドイツ→米国という流れをみてみました。
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1543年 ポルトガル人 種子島漂着
1549年 フランシスコ・ザビエルの日本来航(イゴ、ヨクみかけるキリスト教徒、とおぼえました)
大友宗麟の庇護の下に伝導、各地に南蛮病院ができ外科が発展(南蛮外科)
1557年 外科医でもあったポルトガルの宣教師ルイス・デ・アルメイダが大分に病院を設立
※大分医師会立アルメイダ病院の名前の由来
1587年 豊臣秀吉 キリシタン追放令
1600年 大分県にオランダの300トン規模の商船リーデフ号が漂着。
このなかに、江戸幕府外交顧問になったヤン・ヨーステン、英国人のウィリアム・アダムス(三浦按針)が。
1623年 イギリス人が平戸の商館を閉鎖
1624年 スペイン人の来航禁止
1635年 すべての日本の船は外国渡航禁止
1637年 島原の乱
1639年 ポルトガル人の来航禁止
1641年 出島にオランダ商館をうつす 歴代63人の医師が来日。オランダ人の診療以外にも、長崎奉行の許可を経て日本人医師との交流が始まる。
いわゆる鎖国のはじまりででござる。
が、時は流れて
1720年 8代将軍 徳川吉宗が漢訳蘭書の輸入禁止を緩和
1771年 杉田玄白(38)、前野良沢(48)、中川淳庵(32)が江戸小塚原刑場で刑死体の解剖を見学。図鑑(ターヘル・アナトミア)と実際の臓器の位置などが完全に一致している事に驚嘆
※江戸時代の日本の解剖の図 ううむ。これもスゴい。
1722年 将軍吉宗が小石川薬園内に小石川養生所を設立し、貧民を救療
1774年 『解体新書』ターヘルアナトミア 翻訳
1796年 ジェンナー(英)牛痘利用の種痘法発見
1804年 紀伊藩医外科(漢蘭折衷派) 華岡青洲が麻酔剤「通仙散」を用いて全身麻酔で乳がん手術
1810年 橋本伯寿『断毒論』の中で痘瘡、麻疹、黴瘡がひとからひとへ伝染する「伝染病」と記載
1815年 『蘭学事始』
1818年 シーボルト来航
1824年 シーボルト 鳴滝塾をひらく
1825年 異国船打払令
1838年 緒方洪庵が大阪に適塾をひらく
江戸薬研堀に蘭方医学塾 和田塾がひらかれる(後の順天堂大学)
1839年 イギリス/中国 アヘン戦争
1847年 佐賀藩主が藩医に牛痘苗とり寄せを指示
1848年 オランダ商館医官が痘漿を持参、しかし失敗(冷蔵庫がなかったのでね・・・)
1849年 佐賀藩医 楢林宗建はオランダ領バタビアから届いた牛痘痂を息子の建三郎に接種して成功、藩主も子息に接種。 京都、大阪へその取り組みが広がる。
緒方洪庵『病学通論』の中で「伝染病」を解説。「感染」という用語を使用。
1852年 オランダ商館長クルティウスが幕府にアメリカ合衆国が砲艦外交を極東でおこなうとして米国軍船の来航を予告したが、幕閣はこれを黙殺
1853年 米国大統領フィルモアの国書をたずさえて、アメリカ海軍東インド艦隊司令長官ペリーが相模国三浦郡浦賀沖に来航
1854年 ペリーが軍艦7隻を率いて再来航し、日米和親条約が調印されて日本が開国 下田、箱館を開港
幕府はオランダから軍艦を購入
1856年 幕府は「蕃書調所」を設立。蘭学だけでなく洋学へとひろがっていった。
1857年 長崎にオランダ海軍医ポンペ(28)が着任。基礎から臨床まで系統的に医学を教えはじめた。臨床実習の必要性を幕府に伝え病院を設立。
「長崎養生所」はのちの長崎大学医学部に。
1858年 蘭学者の拠出金で 神田お玉が池に種痘所がひらかれ、江戸にも種痘普及。
緒方洪庵らの努力により大阪には除痘館ができ、種痘普及の拠点に。
福沢諭吉が蘭学塾(後の慶応義塾大学)を開く
1860年 幕府が種痘の効果を認め、官立の種痘所に。後の東大医学部。
1861年 種痘所が西洋医学所に改称(1863年医学所に)
1869年 オランダ医学はドイツ医学の翻訳でしょ・・ということでこの後ドイツ医学が主流に。医師がドイツに留学するようになる。
佐藤進(1875年帰国)明治政府の公式旅券第一号を得てドイツ・ベルリン大学へ留学・卒業。東洋人として初の医学博士の学位取得
1872年 京都にライプチヒ大学推薦のユンケル フォン ランゲック(44)が着任。
南禅寺方丈にわが国初の精神病院(仮癩狂院(かりらいきょういん))を開き,結核患者を隔離収容,性病対策には駆黴院(くばいいん)を設
1875年 医術開業試験制度(明治8年)
湯島に順天堂医院ができる
1883年 北里柴三郎 ドイツのコッホ研究所に留学(1892年帰国)
1884年 医術開業試験の女性に門戸開放(明治17年)
1892年 北里柴三郎が伝染病研究所を設立
1897年 伝染病予防法
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歴史に名前のあがらない、しかし日本の医療に貢献した人たちがいます、という医学誌の研究論文がありました。
Studies Abroad by Japanese Doctors: A Prosopographic Analysis of the Nameless Practitioners, 1862–1912
Soc Hist Med (2010.Mar)
19世紀後半に医学留学をした日本の医師達が日本の医療をかえていきました。1862年〜1912年の間に留学をした医師は少なくとも763名おり、
公費でドイツ語の大学に留学した人と、民間で留学した人たちがいました。
前者は主にベルリン大学で勉強した国のエリートたちで帰国後に東京大学で教師となりました。後者は臨床医学に重きを置いて学び、帰国後の地域に置ける医療の発展に貢献しました。
江戸時代のオランダとの交流(国立図書館) 古い本や絵がたくさん
明治時代の医学をひもとく版画 CNN
青木編集長が医学生の頃は、ドイツ語も勉強したけれど、大学の先生は米国留学帰りの方が多かったそうです。
いまはもっと選択肢も広がっていますね。
若い皆さんの活躍に期待しています。
西洋の影響は、ヨーロッパ諸国が航海技術を発展させ、産業革命、宗教対立/戦争その他で「外へいかねば」というモードができてから。
オランダ→ドイツ→米国という流れをみてみました。
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1543年 ポルトガル人 種子島漂着
1549年 フランシスコ・ザビエルの日本来航(イゴ、ヨクみかけるキリスト教徒、とおぼえました)
大友宗麟の庇護の下に伝導、各地に南蛮病院ができ外科が発展(南蛮外科)
1557年 外科医でもあったポルトガルの宣教師ルイス・デ・アルメイダが大分に病院を設立
※大分医師会立アルメイダ病院の名前の由来
1587年 豊臣秀吉 キリシタン追放令
1600年 大分県にオランダの300トン規模の商船リーデフ号が漂着。
このなかに、江戸幕府外交顧問になったヤン・ヨーステン、英国人のウィリアム・アダムス(三浦按針)が。
1623年 イギリス人が平戸の商館を閉鎖
1624年 スペイン人の来航禁止
1635年 すべての日本の船は外国渡航禁止
1637年 島原の乱
1639年 ポルトガル人の来航禁止
1641年 出島にオランダ商館をうつす 歴代63人の医師が来日。オランダ人の診療以外にも、長崎奉行の許可を経て日本人医師との交流が始まる。
いわゆる鎖国のはじまりででござる。
が、時は流れて
1720年 8代将軍 徳川吉宗が漢訳蘭書の輸入禁止を緩和
1771年 杉田玄白(38)、前野良沢(48)、中川淳庵(32)が江戸小塚原刑場で刑死体の解剖を見学。図鑑(ターヘル・アナトミア)と実際の臓器の位置などが完全に一致している事に驚嘆
※江戸時代の日本の解剖の図 ううむ。これもスゴい。
1722年 将軍吉宗が小石川薬園内に小石川養生所を設立し、貧民を救療
1774年 『解体新書』ターヘルアナトミア 翻訳
1796年 ジェンナー(英)牛痘利用の種痘法発見
1804年 紀伊藩医外科(漢蘭折衷派) 華岡青洲が麻酔剤「通仙散」を用いて全身麻酔で乳がん手術
1810年 橋本伯寿『断毒論』の中で痘瘡、麻疹、黴瘡がひとからひとへ伝染する「伝染病」と記載
1815年 『蘭学事始』
1818年 シーボルト来航
1824年 シーボルト 鳴滝塾をひらく
1825年 異国船打払令
1838年 緒方洪庵が大阪に適塾をひらく
江戸薬研堀に蘭方医学塾 和田塾がひらかれる(後の順天堂大学)
1839年 イギリス/中国 アヘン戦争
1847年 佐賀藩主が藩医に牛痘苗とり寄せを指示
1848年 オランダ商館医官が痘漿を持参、しかし失敗(冷蔵庫がなかったのでね・・・)
1849年 佐賀藩医 楢林宗建はオランダ領バタビアから届いた牛痘痂を息子の建三郎に接種して成功、藩主も子息に接種。 京都、大阪へその取り組みが広がる。
緒方洪庵『病学通論』の中で「伝染病」を解説。「感染」という用語を使用。
1852年 オランダ商館長クルティウスが幕府にアメリカ合衆国が砲艦外交を極東でおこなうとして米国軍船の来航を予告したが、幕閣はこれを黙殺
1853年 米国大統領フィルモアの国書をたずさえて、アメリカ海軍東インド艦隊司令長官ペリーが相模国三浦郡浦賀沖に来航
1854年 ペリーが軍艦7隻を率いて再来航し、日米和親条約が調印されて日本が開国 下田、箱館を開港
幕府はオランダから軍艦を購入
1856年 幕府は「蕃書調所」を設立。蘭学だけでなく洋学へとひろがっていった。
1857年 長崎にオランダ海軍医ポンペ(28)が着任。基礎から臨床まで系統的に医学を教えはじめた。臨床実習の必要性を幕府に伝え病院を設立。
「長崎養生所」はのちの長崎大学医学部に。
1858年 蘭学者の拠出金で 神田お玉が池に種痘所がひらかれ、江戸にも種痘普及。
緒方洪庵らの努力により大阪には除痘館ができ、種痘普及の拠点に。
福沢諭吉が蘭学塾(後の慶応義塾大学)を開く
1860年 幕府が種痘の効果を認め、官立の種痘所に。後の東大医学部。
1861年 種痘所が西洋医学所に改称(1863年医学所に)
1869年 オランダ医学はドイツ医学の翻訳でしょ・・ということでこの後ドイツ医学が主流に。医師がドイツに留学するようになる。
佐藤進(1875年帰国)明治政府の公式旅券第一号を得てドイツ・ベルリン大学へ留学・卒業。東洋人として初の医学博士の学位取得
1872年 京都にライプチヒ大学推薦のユンケル フォン ランゲック(44)が着任。
南禅寺方丈にわが国初の精神病院(仮癩狂院(かりらいきょういん))を開き,結核患者を隔離収容,性病対策には駆黴院(くばいいん)を設
1875年 医術開業試験制度(明治8年)
湯島に順天堂医院ができる
1883年 北里柴三郎 ドイツのコッホ研究所に留学(1892年帰国)
1884年 医術開業試験の女性に門戸開放(明治17年)
1892年 北里柴三郎が伝染病研究所を設立
1897年 伝染病予防法
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歴史に名前のあがらない、しかし日本の医療に貢献した人たちがいます、という医学誌の研究論文がありました。
Studies Abroad by Japanese Doctors: A Prosopographic Analysis of the Nameless Practitioners, 1862–1912
Soc Hist Med (2010.Mar)
19世紀後半に医学留学をした日本の医師達が日本の医療をかえていきました。1862年〜1912年の間に留学をした医師は少なくとも763名おり、
公費でドイツ語の大学に留学した人と、民間で留学した人たちがいました。
前者は主にベルリン大学で勉強した国のエリートたちで帰国後に東京大学で教師となりました。後者は臨床医学に重きを置いて学び、帰国後の地域に置ける医療の発展に貢献しました。
江戸時代のオランダとの交流(国立図書館) 古い本や絵がたくさん
明治時代の医学をひもとく版画 CNN
青木編集長が医学生の頃は、ドイツ語も勉強したけれど、大学の先生は米国留学帰りの方が多かったそうです。
いまはもっと選択肢も広がっていますね。
若い皆さんの活躍に期待しています。