青木編集長が敬愛する旭中央病院の中村先生。そのご縁で定期的に「特急しおさい」で旭にでかける編集長。定期カンファレンス、春の書記研修医ブートキャンプと、濃厚に院内で皆さんと勉強して東京にもどるというパターンです。
あまり周囲にでかけていません(注:グルメツアーをのぞく)。
最近、ブログ編集部員1号、青木編集長と接点のありそうな話をみつけました。夏休みの自由研究的に紹介したいとおもいます。以下、青木マニアにしか楽しめないかもしれないマニアックな記事となりました。
それは戸塚文卿神父が昭和6年につくられた「海上寮」です。社会福祉法人ロザリオの聖母の会が運営母体。「甘えの構造」の土居健郎医師による精神科病院です。 ブログもあります。医局長の精神科の先生は感染症好きで感染管理対策にもとりくんでおられます。
さて。
神父となる前は医師だった戸塚文卿さん。明治25年(1982年)に神奈川県の横須賀市で生まれました。お父さんの戸塚環海さんが横須賀海軍病院長。 ひ孫のかたのブログ記事に写真があります。
お父さんの環海さんは海軍軍医総監であった戸塚文海さんの養子となっています。
すでにこんがらがりそうですが、 文海さん→環海さん→文卿さん の順です。
文海さんは適塾に学び、シーボルト、ボードウィンの教育を受け→徳川慶喜の奥医師→勝海舟の勧めで海軍に出仕→海軍病院長となっています。
養子となった環海さんは、海軍医学校を首席で卒業。その後自費で英国に留学します。セント・トーマス病院学校で学び、ベルリンではコッホのもとで細菌学をおさめます。そして文海さんと同じく横須賀海軍鎮守府軍医長兼海軍病院長となります。
ちなみに青木編集長のひいおじいさん 青木甲子三 (かしぞう)さんも横須賀海軍病院長をしていました。(青木編集長のおじいさんの馨(かおる)さんは現在の県立横須賀高校から東京慈恵医科大学に進学します)
環海さん自身は軍医大監として1898年4月1日 -、1901年4月15日 -と2期軍医学校長をつとめました。日清戦争時代には病院船「神戸丸」の軍医長として従軍。その後は呉海軍病院長となりましたが、子どもの教育のことなども考えて退職。明治40年には品川で戸塚外科医院を開業。当時珍しい、消毒設備の整った病院でした。
文卿さんは暁星でフランス人宣教師のもとで(ほとんどフランス語)学びます。そして、明治42年に暁星を首席で卒業。一高の受験の日には虫垂炎で苦しんでいましたが無事合格。その後東大医科に進学します。ドイツ語がとても上手で、卒業後は佐藤三吉教授のもとで外科を専攻。卒業時には銀の懐中時計を下賜されすぐに助手になりました。
在学中に麻布教会のツルペン神父から洗礼を受けます。
その後、恩師の佐藤教授から、きみ、フランス語がうまいから細菌学をやりたまえといわれて外科から衛生医学に転じます。文部省派遣の留学生として、2年間アメリカ、フランス、ドイツへの留学が命じられました。英語・ドイツ語・フランス語が堪能。うらやましい!
ここで人生が大きくかわります。パリのパストゥール研究所で学習中、友人のいたイギリスに遊びにいくことになりました。 ロンドンから50マイルのコールダッシュのフランシスコ会の修道院にいったとき、修道女の姿に感銘し司祭になることを決心。これを転向Bekehrungであったと記しています。
問題は恩師や家族です(それはそれはびっくりされたでしょう!)
司祭になるという文卿さんの決断について、恩師は承認。息子が帰ってくるまでとがんばって病院を経営していた父には衝撃の出来事でした。その後パリのカトリック大学でラテン語、神学を学び、大正13年(1924年)に神学校の過程を終了。サン・スルピス神学校聖堂で司祭に叙階されました。
帰国後、医師・神父としての活動を展開します。1925年、カトリック精神に則った「聖ヨハネ汎愛医院」を品川に開院。これは、現在、小金井市にある桜町病院の前身です。
”桜町病院は、カトリック司祭戸塚文卿師が、昭和2年、貧しい人々のために開設した「聖ヨハネ汎愛医院」、結核患者のために開設した「ナザレト・ハウス」が発展した病院で、昭和14年に現在地に開院しました。”とホームページで紹介されています。
帰国後文卿さんは、司祭そして医師として患者の診察にあたりました。ご本人は外科医でしたが、当時たくさん患者のいた結核について、回復後の患者のケア施設を荏原につくります。 「ナザレト・ハウス」。これが昭和6年、千葉県九十九里浜の矢指村に移転させました。これが冒頭で紹介した旭にある「海上寮」です。
地元の人が結核の伝染を心配したため、「兎別荘」という名前でよんでいたそうです。(兎を飼っていた)残念ながらこの施設は1971年に結核病棟を廃止。精神神経科の病院となりました。
同じ頃、新宿の下落合にフランシスコ修道女会の病院が着工され、国際聖母病院として開院。文卿さんは初代の院長となりましたが、修道会と経営について意見があわず一年後に辞職。
1932年、医院を西小川に移転、1938年、カトリック新聞社社長に就任、小金井市に病院建設の計画を立て資金に奔走、その最中、心臓発作に倒れ、病院着工したもの完成を見ること無く1939年8月17日、帰天。
戸塚文卿先生の記録は福音史家聖ヨハネ布教修道会のホームページにあります。
戸塚神父伝―神に聴診器をあてた人
小田部 胤明
はい。復習です。
文海さん → 環海さん → 文卿さん(桜町病院、海上寮をつくった医師で神父)。
カンのよいかたはもう1つのお話にも気づいているかもしれません。
そう。文海さんの前の方は静海さんです。
静海さん → 文海さん → 環海さん → 文卿さん 静海さんは掛川藩の藩医の家に生まれ、江戸で蘭学を学び、長崎の鳴滝塾に遊学。シーボルトよりオランダ医学を学びます。
1831年9月、江戸に戻ります。それまで漢方中心だった幕府の医療・医育機関は西洋医学の新興に慌てます。安政4年(1857年)には、幕府の医学館世話役であった多紀元堅が中心とり西洋医学御禁制のお触書を幕府に出させたりしたものの、首謀者が死亡し、蘭学反対は低調になっていきました。
よし。抵抗勢力クリア。
そして、安政5年(1858年)、戸塚静海・大槻俊斎・伊東玄朴らはお玉が池種痘所設立しています。 現在の東京大学医学部へとつながっていく当時の予防接種センター!
幼児期に天然痘になり病弱であった徳川13代将軍家定が重症の脚気になったときに、伊東玄朴と戸塚静海が奥医師として新たに就官。
新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)?司馬 遼太郎 「胡蝶の夢」はシーボルトの弟子たちが日本の医学界に貢献する話で、戸塚静海が江戸で「種痘」の接種を行う話がでてきます。胡蝶の夢(一)~(四) 合本版
司馬 遼太郎
お玉ケ池の種痘所の話が出てくる 手塚治の『陽だまりの樹』。手塚治の祖先の手塚良仙、良庵もでてきます。 陽だまりの樹 コミック 文庫版 全8巻完結セット (小学館文庫)
手塚 治虫 小田部胤明 『戸塚文卿神父小伝ー海上寮の草分けー』 あさひ文庫-2 200円
と、夏休みの自由研究っぽくまとめてみました。
公開イベントのときにでかけてみたいとおもいました😊
あまり周囲にでかけていません(注:グルメツアーをのぞく)。
最近、ブログ編集部員1号、青木編集長と接点のありそうな話をみつけました。夏休みの自由研究的に紹介したいとおもいます。以下、青木マニアにしか楽しめないかもしれないマニアックな記事となりました。
それは戸塚文卿神父が昭和6年につくられた「海上寮」です。社会福祉法人ロザリオの聖母の会が運営母体。「甘えの構造」の土居健郎医師による精神科病院です。 ブログもあります。医局長の精神科の先生は感染症好きで感染管理対策にもとりくんでおられます。
さて。
神父となる前は医師だった戸塚文卿さん。明治25年(1982年)に神奈川県の横須賀市で生まれました。お父さんの戸塚環海さんが横須賀海軍病院長。 ひ孫のかたのブログ記事に写真があります。
お父さんの環海さんは海軍軍医総監であった戸塚文海さんの養子となっています。
すでにこんがらがりそうですが、 文海さん→環海さん→文卿さん の順です。
文海さんは適塾に学び、シーボルト、ボードウィンの教育を受け→徳川慶喜の奥医師→勝海舟の勧めで海軍に出仕→海軍病院長となっています。
養子となった環海さんは、海軍医学校を首席で卒業。その後自費で英国に留学します。セント・トーマス病院学校で学び、ベルリンではコッホのもとで細菌学をおさめます。そして文海さんと同じく横須賀海軍鎮守府軍医長兼海軍病院長となります。
ちなみに青木編集長のひいおじいさん 青木甲子三 (かしぞう)さんも横須賀海軍病院長をしていました。(青木編集長のおじいさんの馨(かおる)さんは現在の県立横須賀高校から東京慈恵医科大学に進学します)
環海さん自身は軍医大監として1898年4月1日 -、1901年4月15日 -と2期軍医学校長をつとめました。日清戦争時代には病院船「神戸丸」の軍医長として従軍。その後は呉海軍病院長となりましたが、子どもの教育のことなども考えて退職。明治40年には品川で戸塚外科医院を開業。当時珍しい、消毒設備の整った病院でした。
文卿さんは暁星でフランス人宣教師のもとで(ほとんどフランス語)学びます。そして、明治42年に暁星を首席で卒業。一高の受験の日には虫垂炎で苦しんでいましたが無事合格。その後東大医科に進学します。ドイツ語がとても上手で、卒業後は佐藤三吉教授のもとで外科を専攻。卒業時には銀の懐中時計を下賜されすぐに助手になりました。
在学中に麻布教会のツルペン神父から洗礼を受けます。
その後、恩師の佐藤教授から、きみ、フランス語がうまいから細菌学をやりたまえといわれて外科から衛生医学に転じます。文部省派遣の留学生として、2年間アメリカ、フランス、ドイツへの留学が命じられました。英語・ドイツ語・フランス語が堪能。うらやましい!
ここで人生が大きくかわります。パリのパストゥール研究所で学習中、友人のいたイギリスに遊びにいくことになりました。 ロンドンから50マイルのコールダッシュのフランシスコ会の修道院にいったとき、修道女の姿に感銘し司祭になることを決心。これを転向Bekehrungであったと記しています。
問題は恩師や家族です(それはそれはびっくりされたでしょう!)
司祭になるという文卿さんの決断について、恩師は承認。息子が帰ってくるまでとがんばって病院を経営していた父には衝撃の出来事でした。その後パリのカトリック大学でラテン語、神学を学び、大正13年(1924年)に神学校の過程を終了。サン・スルピス神学校聖堂で司祭に叙階されました。
帰国後、医師・神父としての活動を展開します。1925年、カトリック精神に則った「聖ヨハネ汎愛医院」を品川に開院。これは、現在、小金井市にある桜町病院の前身です。
”桜町病院は、カトリック司祭戸塚文卿師が、昭和2年、貧しい人々のために開設した「聖ヨハネ汎愛医院」、結核患者のために開設した「ナザレト・ハウス」が発展した病院で、昭和14年に現在地に開院しました。”とホームページで紹介されています。
帰国後文卿さんは、司祭そして医師として患者の診察にあたりました。ご本人は外科医でしたが、当時たくさん患者のいた結核について、回復後の患者のケア施設を荏原につくります。 「ナザレト・ハウス」。これが昭和6年、千葉県九十九里浜の矢指村に移転させました。これが冒頭で紹介した旭にある「海上寮」です。
地元の人が結核の伝染を心配したため、「兎別荘」という名前でよんでいたそうです。(兎を飼っていた)残念ながらこの施設は1971年に結核病棟を廃止。精神神経科の病院となりました。
同じ頃、新宿の下落合にフランシスコ修道女会の病院が着工され、国際聖母病院として開院。文卿さんは初代の院長となりましたが、修道会と経営について意見があわず一年後に辞職。
1932年、医院を西小川に移転、1938年、カトリック新聞社社長に就任、小金井市に病院建設の計画を立て資金に奔走、その最中、心臓発作に倒れ、病院着工したもの完成を見ること無く1939年8月17日、帰天。
戸塚文卿先生の記録は福音史家聖ヨハネ布教修道会のホームページにあります。
戸塚神父伝―神に聴診器をあてた人
小田部 胤明
はい。復習です。
文海さん → 環海さん → 文卿さん(桜町病院、海上寮をつくった医師で神父)。
カンのよいかたはもう1つのお話にも気づいているかもしれません。
そう。文海さんの前の方は静海さんです。
静海さん → 文海さん → 環海さん → 文卿さん 静海さんは掛川藩の藩医の家に生まれ、江戸で蘭学を学び、長崎の鳴滝塾に遊学。シーボルトよりオランダ医学を学びます。
1831年9月、江戸に戻ります。それまで漢方中心だった幕府の医療・医育機関は西洋医学の新興に慌てます。安政4年(1857年)には、幕府の医学館世話役であった多紀元堅が中心とり西洋医学御禁制のお触書を幕府に出させたりしたものの、首謀者が死亡し、蘭学反対は低調になっていきました。
よし。抵抗勢力クリア。
そして、安政5年(1858年)、戸塚静海・大槻俊斎・伊東玄朴らはお玉が池種痘所設立しています。 現在の東京大学医学部へとつながっていく当時の予防接種センター!
幼児期に天然痘になり病弱であった徳川13代将軍家定が重症の脚気になったときに、伊東玄朴と戸塚静海が奥医師として新たに就官。
新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)?司馬 遼太郎 「胡蝶の夢」はシーボルトの弟子たちが日本の医学界に貢献する話で、戸塚静海が江戸で「種痘」の接種を行う話がでてきます。胡蝶の夢(一)~(四) 合本版
司馬 遼太郎
お玉ケ池の種痘所の話が出てくる 手塚治の『陽だまりの樹』。手塚治の祖先の手塚良仙、良庵もでてきます。 陽だまりの樹 コミック 文庫版 全8巻完結セット (小学館文庫)
手塚 治虫 小田部胤明 『戸塚文卿神父小伝ー海上寮の草分けー』 あさひ文庫-2 200円
と、夏休みの自由研究っぽくまとめてみました。
公開イベントのときにでかけてみたいとおもいました😊