1979年、琉球大学医学部もなく沖縄本島で唯一の第三次医療機関であった沖縄県立中部病院の救急室に卒後1年目の編集長はいました。当時の救急の受入数は日本でも最大級であったと思います。
連なる救急車の列を見なれた編集長は東京に就職し、「内地では救急車は一台ずつ来るんだ・・」と新鮮な気持ちがしたものです。
まさか今日、再び救急車が連なる事態を見るようになるとは思いもよらないことでした。しかし今回の救急車が連なるのは患者が多いから・・というだけではない!!
それは「酸素リレー」とでも言うべき光景・・
コロナ悪化で救急要請 ⇒救急車で酸素投与 ⇒受け入れ医療機関もう無い! ⇒救急車の酸素空になる ⇒次の救急車の酸素を、それも空になる ⇒次の次の救急車の酸素を・・・
昨日も今日も、入院できない患者に酸素を供給し続けるための複数の救急車による「酸素リレー」が続いています。教え子の症例では6台目で病院が受け入れ。
今日、何人の救えるはずの命を窒息で失うのだろう?安心、安全か・・
タイトル写真:1979年当時、沖縄で編集長をしごいていた先輩たち