○○の原因は××だ、いや△△だ、、、という議論があるとき、どのように検証できるのか(できないか)。
専門家でも意見が対立したらどうなるのか。
医療系の大学や学校に進学した人は、疫学のエピソードとして、あるいは歴史上の人物の逸話として学んだことがあるかもしれません。
脚気の話です。昔の話、、、ですが今でも診断されています。
【参考】
・NATROM先生 2008-12-22 衝心脚気についての医学的定説 心臓 Vol. 35 (2003) No. 12 p. 833-837
・症例 脚気心により多臓器不全を発症した1例
・過度の食事制限によって脚気ニューロパシーおよび脚気心をきたした緩徐進行性1型糖尿病の1例 糖尿病 Vol. 48 (2005) No. 2 P 103-107
・ビタミンB1投与が著効したアルコール性脚気心の1症例 日本集中治療医学会雑誌 Vol. 12 (2005) No. 2 P 145-146
・ビタミンB1欠乏による身体合併症をきたした精神科通院患者䛾2例
下肢䛾しびれ・疼痛, 呼吸苦, 動悸
・ビタミンB1 欠乏により著明な肺高血圧を来した1 例 日本小児循環器学会雑誌 Vol. 29 (2013) No. 6 p. 352-356
・イオン飲料多飲による脚気の1歳児 日本小児科学会誌 112(11):p.1710-1712, 2008
イオン飲料の話は「からだにいい」イメージで多飲されていることがありますね。
脚気は東京慈恵会医科大学の創始者 高木兼寛先生の功績のお話として有名です。あちこちのサイトやブログでもかたりつくされています。資料もよく残っているんですね。
連載〕How to make クリニカル・エビデンス-その仮説をいかに証明するか?-
高木先生は1849年に宮崎県に生まれ、医師を志し、鳥羽伏見の戦いに従軍した際に、それまでに学んだ医学では不足があることを痛感。その後、医学を学び続け、イギリス人のウィリス医師に師事します。
その後、日本の医学の転換点がきます。
ウィリスの功績、政治的な事情から、日本の医療はイギリス医学を採用する流れにありましたが、これに反対する人もいて最終的に大学と陸軍はドイツ医学を採用します。
高木先生が活躍する海軍はイギリス医学を採用。
高木先生は1875年にロンドンのセント・トーマス病院に留学するのですが、1872年に勤務したときから脚気患者の多さに気づいていたという話が『白い航跡』の中で紹介されています。
『白い航跡』(p.34)" 症状は足がだるく疲れやすい。手足がしびれ、動悸がし、食欲不振におちいり、足がむくむ。さらに病態が進むと歩行も困難になって視力も衰え、突然、胸が苦しくなって心臓麻痺を起こして死ぬ。灸、鍼、湯治などの朗報が行われたが効果はなく、寺や神社に祈願するだけであった。"
"江戸時代には上下の差なく罹病し、元禄年間では江戸で大流行をしたため「江戸わずらい」と俗称された。(略)短期間に死ぬので「三日坊」ともわれた。医師はなすすべもなく、将軍家でも三代家光、十三代家定、十四代家茂が、重症の脚気にかかり、心臓麻痺で死亡”
これはおおごと!
1877年に内務卿 大久保利通は全国府県の公立病院に対し、症状、病院、治療法等を報告するよう通達を出し、明治天皇は本格的にこの病気の研究に取り組むため脚気専門病院を設立してはどうかと提案(皇室の中でも発症者や死亡例がいたため)。
(専門家はなんといっているのでしょう?)
1876年に来日し東京大学医学部の教授だったドイツ人のベルツは「黴菌」によると考え、伝染病説。
分母と分子をみてみましょう。
全海軍の統計調査
明治11年 総数 4,528人 →脚気患者は1,485人
明治12年 総数 5,081人 →脚気患者は1,978人
明治13年 総数 4,956人 →脚気患者は1,725人
明治14年 総数 4,641人 →脚気患者は1,163人
細かい症例定義はわかりませんが、なんと30%近く。そして明治11年から明治14年までの死亡者は146人。
原因の探索がはじまります。
発病と季節を検討→晩春から夏が多いが秋や冬にも発病者があった。
配属部署→艦船の乗員と地上勤務に差なし。
衣類、植物、住居との関連もなかった。
そこに気になるデータ。
1875年に海外練習公開をした軍艦「筑波」での経験
・航海日数は160人で航海中に脚気患者が多発
・しかし、ホノルル、サンフランシスコは停泊中は一人として発病したものはなく、帰途の航海に入ると急激に増えていた。
・1878年に豪州航海に出た際も、シドニー停泊中は脚気患者は出ず、帰航途中から患者が増え、乗組員、生徒合計146名中47名が脚気となった。
つまり停泊中と航海中に差がある。
英国では脚気をみかけなかったこと、英国で栄養学も学んだことをヒントに「食事がカギなのではないか?」と考えます。
伝染病なら船をおりたあとも発症者がでるはずでは?
そうです。潜伏期間も気になります。
ヒトの要素として海軍病院に入院している脚気患者が水兵にかぎられ、士官がきわめて少ないことに注目。
食事の様子を見に行きます(事件は現場でおきている!)。
そうすると、、、、、
・水兵は米飯を多く取り副食物はわずか
・しかし、地方出身者が多く、海軍に入って白米を口にできるのを喜んでいる
・幕末時代から、主食は現物支給、副食は金給、明治13年にすべて金給となったが、水兵は食費をそのまま食物の購入にあてておらず、わずかな金を副食代にせず貯蓄や故郷への送金する人もいた
そう。ますます「食事が原因じゃないか?」と考えます。
対策をどうしよう、、、というところに京城事変がおき、このときに軍艦の乗組員らが多数脚気を発症。
戦争どころではない、まずい状況が発覚。
それまで静観していた人たちも関心をもたざるをえません。
脚気患者が発生し、患者が収容された海軍病院では、軍医が足や体がはれている者や心臓の動悸が激しいものには下剤をかけてジギタリス製剤をあたえ、感覚や運動神経が麻痺している患者にはストリキニンや鉄剤、急性患者には下剤や瀉血...しかし効果はほとんどなく、悪化して死亡する者が続出。
(原因がよくわからないときはしかたないとして、有効ではなく副作用だけがでる治療をされてしまうのは悲しいですね)
かなり偉い高木先生にもさらに偉い上司がいます。
その上司に食事が問題だと説明。しかし、課題もあります。
・パンを主食とした食事に水兵らがなじまない
・貯蓄ができなくなることに不満が出る可能性がある
・洋食は経費がかかる
・食事提供の設備がない
このためまず試験的に試みることを提案、比較群をおいて洋食導入を試みました。
結果は良好だったものの、費用が倍かかることなどから賛同が得られません。
(正しいだけでは足りない)
そのようななか、「龍驤」がニュージーランド、チリ、ペルーを訪問し、ホノルルに向かいます。対策をせずに出発。
ホノルルに向かうなか、脚気がふえていきます。387人中150人が発病。15人が死亡。
ホノルル到着後に医療機関に搬送されたものの、脚気をみたことがない医師は治療術も知らず、病院で重症者8名が死亡。しかし、ホノルル停泊中は脚気患者の発生はなく、軽症者も徐々に快復。
この数に海軍での問題共有がすすみます。
「これは一大事です。わが海軍は脚気のために滅亡します」
「まさしくその通りだ」
そして「筑波」が再度同じ航路で出発することになりました。
高木先生の指示どおり、洋食が取り入れられいます。
その結果、15名が脚気となったのもの一人も脚気の死亡者はでませんでした。
(発症者の特徴は?他の人と何がちがうの?)
15名の発病者中、8名は全く肉を食べず、4名はコンデンスミルクを飲まない人でした。
こうした努力により明治17年度の脚気患者は718名。死亡が8名と、病者は半減、死亡は1/6の規模に。
しかし、洋食のパンになじまない人もいるため、米と麦をまぜて炊くことを検討。
いっぽう陸軍は「脚気の原因は栄養の問題などではなく黴菌の空気感染によっておこるものであり、従って空気の流通をよくして清潔にする必要があり、住居を改良すれば脚気は減少する」と反論。
陸軍は自説をまげません。
が、海軍はどんどん成果をあげていきます。
明治18年(1885年) 6,918人 患者は41人、25人が入院、死亡0
このような中、大阪陸軍病院長 堀内利国は監獄では脚気がでない→麦飯だからでは?と考えて、麦を混ぜたものを主食に採用します。すると!大阪鎮台では脚気患者が1/28に。
東京の近衛連隊の軍医長兼東京陸軍病院長の緒方惟準、広島でも米麦混合主食が導入。
陸軍でも成果、、、、と思いきや、陸軍中枢部の医務関係者の態度をかえません。
明治19年 軍艦「筑波」の練習航海(2月〜11月)での航海中の脚気はゼロ
1年間でみると 海軍8,475人 脚気 3人 死亡ゼロ
日清戦争での海軍の出動人員3,096人中34人、死亡は1
ところが、日本陸軍の朝鮮派兵から台湾平定までの戦死、戦病者の数について、戦死者は977名、戦傷死者293名、病気にかかって死亡したのは20,159名。
病気の1位は脚気、そして胃腸カタル、マラリア。脚気患者で死亡したのは3,944名。
そして。
日露戦争では陸軍 110万名 戦死者 47,000 傷病者352,700名(死亡37,200)、うち脚気が211,600名(27,800)。
日露戦争で従軍した記者が「海軍では脚気がほとんど発生していないのに、陸軍では大流行」をしていることを知り、それを記事にします。家族を送り出している人たちが心配し騒ぎになります。
明治41年6月に来日したドイツの細菌学者コッホは、まず脚気が伝染するとかしないとか論争するのは無益で、まず、診断法を見出したあとに論争すべきだ、と助言したそうです。
(患者をなんとかするのが先)
別のところでの動きも。
明治43年12月 鈴木梅太郎が東京科学会で米の糠の中にある鉄蛋白質が脚気治療に幾分効果がある、と発表。その発表後、鈴木は、ミネラル、炭水化物、蛋白質、蛋白質、脂肪にはみらえない新しい成分が存在することを報告し、それをオリザニンとして翌年2月に発表。
同時期にポーランドの化学者が、酵母から同じはたらきをするものを取り出すことに成功、これをビタミンと名付けて12月に発表。
大正8年 島薗順次郎が日本内科学会総会で、脚気は動物のビタミンB欠乏症ににていると発表。
大正10年 慶応大学での実験:脚気の軽症者と健康者6名ずつでビタミンBの欠けた食物のみを摂取させた。軽症者は重症になり、健康者が脚気に。その後ビタミンBを多量に含む食物を与えたところ12名全てが全治。
反対の論陣をはっていた森林太郎は大正11年7月に死去。
その後も細菌説に固執していた医学者は沈黙。
この説を支持する発表報告が欧米からも続き認めざるを得なくなりました。
大正14年、臨時脚気病調査会は最終報告会を開き、原因は食物中のビタミンB欠乏によるものと結論づけました。
専門家間の論争がここにおわりました。
丁寧な観察、介入での検証、規模を広げての前向き研究の基礎を学びます。
仮説は大切ですが、執着しすぎると救えるはずの健康や命が失われてしまうリスクがあることも知ります。
自分の考えを指示する仲間だけで固まってしまったり、都合が悪い情報は軽視するような態度では、本来の目的である「病気や症状で苦しむ人を助ける」ことから遠ざかることになってしまうんですね。
今にもつながる学びの多いお話です。
松田 誠「脚気病原因の研究史〜ビタミン欠乏症が発見、認定されるまで」 『高木兼寛の医学』
新装版 白い航跡(上) (講談社文庫)講談社
新装版 白い航跡(下) (講談社文庫)講談社
麦飯男爵高木兼寛―官僚制度と闘った男 (ミスターマガジンKC―シリーズ「戦争と人間」 (172))講談社
専門家でも意見が対立したらどうなるのか。
医療系の大学や学校に進学した人は、疫学のエピソードとして、あるいは歴史上の人物の逸話として学んだことがあるかもしれません。
脚気の話です。昔の話、、、ですが今でも診断されています。
【参考】
・NATROM先生 2008-12-22 衝心脚気についての医学的定説 心臓 Vol. 35 (2003) No. 12 p. 833-837
・症例 脚気心により多臓器不全を発症した1例
・過度の食事制限によって脚気ニューロパシーおよび脚気心をきたした緩徐進行性1型糖尿病の1例 糖尿病 Vol. 48 (2005) No. 2 P 103-107
・ビタミンB1投与が著効したアルコール性脚気心の1症例 日本集中治療医学会雑誌 Vol. 12 (2005) No. 2 P 145-146
・ビタミンB1欠乏による身体合併症をきたした精神科通院患者䛾2例
下肢䛾しびれ・疼痛, 呼吸苦, 動悸
・ビタミンB1 欠乏により著明な肺高血圧を来した1 例 日本小児循環器学会雑誌 Vol. 29 (2013) No. 6 p. 352-356
・イオン飲料多飲による脚気の1歳児 日本小児科学会誌 112(11):p.1710-1712, 2008
イオン飲料の話は「からだにいい」イメージで多飲されていることがありますね。
脚気は東京慈恵会医科大学の創始者 高木兼寛先生の功績のお話として有名です。あちこちのサイトやブログでもかたりつくされています。資料もよく残っているんですね。
連載〕How to make クリニカル・エビデンス-その仮説をいかに証明するか?-
高木先生は1849年に宮崎県に生まれ、医師を志し、鳥羽伏見の戦いに従軍した際に、それまでに学んだ医学では不足があることを痛感。その後、医学を学び続け、イギリス人のウィリス医師に師事します。
その後、日本の医学の転換点がきます。
ウィリスの功績、政治的な事情から、日本の医療はイギリス医学を採用する流れにありましたが、これに反対する人もいて最終的に大学と陸軍はドイツ医学を採用します。
高木先生が活躍する海軍はイギリス医学を採用。
高木先生は1875年にロンドンのセント・トーマス病院に留学するのですが、1872年に勤務したときから脚気患者の多さに気づいていたという話が『白い航跡』の中で紹介されています。
『白い航跡』(p.34)" 症状は足がだるく疲れやすい。手足がしびれ、動悸がし、食欲不振におちいり、足がむくむ。さらに病態が進むと歩行も困難になって視力も衰え、突然、胸が苦しくなって心臓麻痺を起こして死ぬ。灸、鍼、湯治などの朗報が行われたが効果はなく、寺や神社に祈願するだけであった。"
"江戸時代には上下の差なく罹病し、元禄年間では江戸で大流行をしたため「江戸わずらい」と俗称された。(略)短期間に死ぬので「三日坊」ともわれた。医師はなすすべもなく、将軍家でも三代家光、十三代家定、十四代家茂が、重症の脚気にかかり、心臓麻痺で死亡”
これはおおごと!
1877年に内務卿 大久保利通は全国府県の公立病院に対し、症状、病院、治療法等を報告するよう通達を出し、明治天皇は本格的にこの病気の研究に取り組むため脚気専門病院を設立してはどうかと提案(皇室の中でも発症者や死亡例がいたため)。
(専門家はなんといっているのでしょう?)
1876年に来日し東京大学医学部の教授だったドイツ人のベルツは「黴菌」によると考え、伝染病説。
分母と分子をみてみましょう。
全海軍の統計調査
明治11年 総数 4,528人 →脚気患者は1,485人
明治12年 総数 5,081人 →脚気患者は1,978人
明治13年 総数 4,956人 →脚気患者は1,725人
明治14年 総数 4,641人 →脚気患者は1,163人
細かい症例定義はわかりませんが、なんと30%近く。そして明治11年から明治14年までの死亡者は146人。
原因の探索がはじまります。
発病と季節を検討→晩春から夏が多いが秋や冬にも発病者があった。
配属部署→艦船の乗員と地上勤務に差なし。
衣類、植物、住居との関連もなかった。
そこに気になるデータ。
1875年に海外練習公開をした軍艦「筑波」での経験
・航海日数は160人で航海中に脚気患者が多発
・しかし、ホノルル、サンフランシスコは停泊中は一人として発病したものはなく、帰途の航海に入ると急激に増えていた。
・1878年に豪州航海に出た際も、シドニー停泊中は脚気患者は出ず、帰航途中から患者が増え、乗組員、生徒合計146名中47名が脚気となった。
つまり停泊中と航海中に差がある。
英国では脚気をみかけなかったこと、英国で栄養学も学んだことをヒントに「食事がカギなのではないか?」と考えます。
伝染病なら船をおりたあとも発症者がでるはずでは?
そうです。潜伏期間も気になります。
ヒトの要素として海軍病院に入院している脚気患者が水兵にかぎられ、士官がきわめて少ないことに注目。
食事の様子を見に行きます(事件は現場でおきている!)。
そうすると、、、、、
・水兵は米飯を多く取り副食物はわずか
・しかし、地方出身者が多く、海軍に入って白米を口にできるのを喜んでいる
・幕末時代から、主食は現物支給、副食は金給、明治13年にすべて金給となったが、水兵は食費をそのまま食物の購入にあてておらず、わずかな金を副食代にせず貯蓄や故郷への送金する人もいた
そう。ますます「食事が原因じゃないか?」と考えます。
対策をどうしよう、、、というところに京城事変がおき、このときに軍艦の乗組員らが多数脚気を発症。
戦争どころではない、まずい状況が発覚。
それまで静観していた人たちも関心をもたざるをえません。
脚気患者が発生し、患者が収容された海軍病院では、軍医が足や体がはれている者や心臓の動悸が激しいものには下剤をかけてジギタリス製剤をあたえ、感覚や運動神経が麻痺している患者にはストリキニンや鉄剤、急性患者には下剤や瀉血...しかし効果はほとんどなく、悪化して死亡する者が続出。
(原因がよくわからないときはしかたないとして、有効ではなく副作用だけがでる治療をされてしまうのは悲しいですね)
かなり偉い高木先生にもさらに偉い上司がいます。
その上司に食事が問題だと説明。しかし、課題もあります。
・パンを主食とした食事に水兵らがなじまない
・貯蓄ができなくなることに不満が出る可能性がある
・洋食は経費がかかる
・食事提供の設備がない
このためまず試験的に試みることを提案、比較群をおいて洋食導入を試みました。
結果は良好だったものの、費用が倍かかることなどから賛同が得られません。
(正しいだけでは足りない)
そのようななか、「龍驤」がニュージーランド、チリ、ペルーを訪問し、ホノルルに向かいます。対策をせずに出発。
ホノルルに向かうなか、脚気がふえていきます。387人中150人が発病。15人が死亡。
ホノルル到着後に医療機関に搬送されたものの、脚気をみたことがない医師は治療術も知らず、病院で重症者8名が死亡。しかし、ホノルル停泊中は脚気患者の発生はなく、軽症者も徐々に快復。
この数に海軍での問題共有がすすみます。
「これは一大事です。わが海軍は脚気のために滅亡します」
「まさしくその通りだ」
そして「筑波」が再度同じ航路で出発することになりました。
高木先生の指示どおり、洋食が取り入れられいます。
その結果、15名が脚気となったのもの一人も脚気の死亡者はでませんでした。
(発症者の特徴は?他の人と何がちがうの?)
15名の発病者中、8名は全く肉を食べず、4名はコンデンスミルクを飲まない人でした。
こうした努力により明治17年度の脚気患者は718名。死亡が8名と、病者は半減、死亡は1/6の規模に。
しかし、洋食のパンになじまない人もいるため、米と麦をまぜて炊くことを検討。
いっぽう陸軍は「脚気の原因は栄養の問題などではなく黴菌の空気感染によっておこるものであり、従って空気の流通をよくして清潔にする必要があり、住居を改良すれば脚気は減少する」と反論。
陸軍は自説をまげません。
が、海軍はどんどん成果をあげていきます。
明治18年(1885年) 6,918人 患者は41人、25人が入院、死亡0
このような中、大阪陸軍病院長 堀内利国は監獄では脚気がでない→麦飯だからでは?と考えて、麦を混ぜたものを主食に採用します。すると!大阪鎮台では脚気患者が1/28に。
東京の近衛連隊の軍医長兼東京陸軍病院長の緒方惟準、広島でも米麦混合主食が導入。
陸軍でも成果、、、、と思いきや、陸軍中枢部の医務関係者の態度をかえません。
明治19年 軍艦「筑波」の練習航海(2月〜11月)での航海中の脚気はゼロ
1年間でみると 海軍8,475人 脚気 3人 死亡ゼロ
日清戦争での海軍の出動人員3,096人中34人、死亡は1
ところが、日本陸軍の朝鮮派兵から台湾平定までの戦死、戦病者の数について、戦死者は977名、戦傷死者293名、病気にかかって死亡したのは20,159名。
病気の1位は脚気、そして胃腸カタル、マラリア。脚気患者で死亡したのは3,944名。
そして。
日露戦争では陸軍 110万名 戦死者 47,000 傷病者352,700名(死亡37,200)、うち脚気が211,600名(27,800)。
日露戦争で従軍した記者が「海軍では脚気がほとんど発生していないのに、陸軍では大流行」をしていることを知り、それを記事にします。家族を送り出している人たちが心配し騒ぎになります。
明治41年6月に来日したドイツの細菌学者コッホは、まず脚気が伝染するとかしないとか論争するのは無益で、まず、診断法を見出したあとに論争すべきだ、と助言したそうです。
(患者をなんとかするのが先)
別のところでの動きも。
明治43年12月 鈴木梅太郎が東京科学会で米の糠の中にある鉄蛋白質が脚気治療に幾分効果がある、と発表。その発表後、鈴木は、ミネラル、炭水化物、蛋白質、蛋白質、脂肪にはみらえない新しい成分が存在することを報告し、それをオリザニンとして翌年2月に発表。
同時期にポーランドの化学者が、酵母から同じはたらきをするものを取り出すことに成功、これをビタミンと名付けて12月に発表。
大正8年 島薗順次郎が日本内科学会総会で、脚気は動物のビタミンB欠乏症ににていると発表。
大正10年 慶応大学での実験:脚気の軽症者と健康者6名ずつでビタミンBの欠けた食物のみを摂取させた。軽症者は重症になり、健康者が脚気に。その後ビタミンBを多量に含む食物を与えたところ12名全てが全治。
反対の論陣をはっていた森林太郎は大正11年7月に死去。
その後も細菌説に固執していた医学者は沈黙。
この説を支持する発表報告が欧米からも続き認めざるを得なくなりました。
大正14年、臨時脚気病調査会は最終報告会を開き、原因は食物中のビタミンB欠乏によるものと結論づけました。
専門家間の論争がここにおわりました。
丁寧な観察、介入での検証、規模を広げての前向き研究の基礎を学びます。
仮説は大切ですが、執着しすぎると救えるはずの健康や命が失われてしまうリスクがあることも知ります。
自分の考えを指示する仲間だけで固まってしまったり、都合が悪い情報は軽視するような態度では、本来の目的である「病気や症状で苦しむ人を助ける」ことから遠ざかることになってしまうんですね。
今にもつながる学びの多いお話です。
松田 誠「脚気病原因の研究史〜ビタミン欠乏症が発見、認定されるまで」 『高木兼寛の医学』
新装版 白い航跡(上) (講談社文庫)講談社
新装版 白い航跡(下) (講談社文庫)講談社
麦飯男爵高木兼寛―官僚制度と闘った男 (ミスターマガジンKC―シリーズ「戦争と人間」 (172))講談社